大作曲家たちの履歴書
1997年刊
三枝成彰著
三枝成彰の経歴
三枝成彰は1942年東京生まれの作曲家であり、日本を代表する現代音楽家である。東京藝術大学音楽学部作曲科で学び、クラシック音楽を基盤としながら、オペラ、交響曲、映画音楽、テレビ音楽、アニメ音楽まで幅広い分野で活躍してきた。代表作にはオペラ忠臣蔵をはじめ、多数の交響作品や舞台作品があり、クラシック音楽の普及活動にも積極的に取り組んできた。本書は、その豊富な知識と長年にわたる演奏家・研究者との交流を背景として執筆されたものであり、単なる音楽史ではなく、一人ひとりの作曲家を人間として描き出そうとした意欲作である。
本書の内容
1.作曲家を人物として読む試み
本書は、バッハからマーラーに至るまで20人の大作曲家について、その人生を履歴書という独特の形式で整理しながら紹介している。生年月日や家系、宗教、教育、性格、恋愛、結婚、経済状態、健康状態、交友関係などを一つの人物データとしてまとめ、その人生と作品との関係を考察している。
2.生い立ちが音楽を形づくる
本書では、それぞれの作曲家が育った家庭環境が詳しく紹介される。音楽一家に生まれたバッハ、厳格な父親の教育を受けたモーツァルト、貧困や家庭不和に苦しんだベートーヴェンなど、それぞれ異なる環境が創作活動へ与えた影響が描かれる。単なる年表ではなく、なぜこのような音楽を書いたのかを生い立ちから説明している。
3.性格と創作活動との関係
本書では作曲家の性格分析にも多くのページが割かれている。例えば、ベートーヴェンの激しい気質、ショパンの繊細さ、リストの社交性、ブラームスの慎重さ、ワーグナーの強烈な自己顕示欲などが紹介され、それらが音楽作品にどのように表れているかが説明される。偉人として神格化するのではなく、一人の人間として長所も短所も率直に描いている。
4.恋愛・結婚・女性関係から見る作曲家
三枝は恋愛や女性関係についても遠慮なく取り上げる。モーツァルト夫妻の結婚生活、ベートーヴェンの不滅の恋人の謎、ショパンとジョルジュ・サンドの関係、ワーグナーの複雑な恋愛遍歴などを紹介し、それらが作品に及ぼした精神的影響について考察している。音楽史では触れられにくい私生活まで踏み込むことで、作品をより立体的に理解できるようになっている。
5.宗教・思想と作品世界
バッハのルター派信仰、モーツァルトのフリーメーソンとの関係、ブルックナーの深いカトリック信仰など、宗教観も重要なテーマとして扱われる。宗教は単なる信仰ではなく、作曲家の価値観や音楽表現を形成する重要な要素であり、それぞれの代表作品との関係が丁寧に説明される。
6.健康・病気・精神状態
多くの大作曲家は健康問題を抱えていた。ベートーヴェンの難聴、シューマンの精神疾患、マーラーの病弱な体質など、それぞれの苦悩が創作活動にどのような影響を与えたかが分析される。芸術作品は才能だけではなく、人生の苦難からも生み出されることが本書を通じて理解できる。
7.音楽史を人生史として読む
本書は作品解説が中心ではない。人生を理解することによって作品への理解を深めようという姿勢が一貫している。そのため、クラシック音楽の専門知識がなくても読みやすく、人物伝としても十分楽しめる内容となっている。
本書が取り上げる大作曲家
天才に共通するのは同じ人生ではなく、創作を続けた執念である。本書に登場する20人の作曲家には、単純な共通履歴は存在しない。バッハは大家族を養う勤勉な教会音楽家であり、モーツァルトは幼少期から各国を旅した神童であった。ベートーヴェンは難聴と孤独に耐え、メンデルスゾーンは裕福な家庭と優れた教育に恵まれた。シューベルトは生前ほとんど評価されず、リストは国際的スターとなり、ヴェルディは農村の土地所有者として堅実に生きた。幸福な結婚をした者もいれば、恋愛や家庭の破綻を繰り返した者もいる。信仰に支えられた者も、政治や社会から逃れた者も、時代と対決した者もいた。性格、健康、教養、経済状態、社会的成功の程度も大きく異なる。それでも彼らに共通するものがあるとすれば、才能よりも、音楽を書くことを人生の中心から外さなかったことである。病気、貧困、亡命、失恋、批判、家庭不和、政治的圧力に直面しても、それぞれの方法で創作を続けた。その執念が、個人的な苦悩や喜びを時代を越えて伝わる作品へ変えた。
1.ヨハン・セバスティアン・バッハ
信仰と職人精神に生きた音楽の父
ヨハン・セバスティアン・バッハは1685年、ドイツ中部のアイゼナハに生まれ、1750年にライプツィヒで没した。代々音楽家を輩出した名門一族の出身であり、幼くして両親を失った後は、兄に引き取られて音楽教育を受けた。オルガン奏者や宮廷楽師を経て、最終的にはライプツィヒの聖トーマス教会付属学校の音楽監督を務めた。バッハにとって作曲とは、個人的な名声を得るための行為というより、神に奉仕し、職務上の責任を果たすための労働であった。毎週の礼拝に必要なカンタータを作り、合唱団を指導し、教会や市当局との交渉にも追われた。頑固で妥協を好まない性格から、雇用主との衝突も少なくなかったが、その反面、仕事に対しては驚異的に勤勉であった。二度結婚し、20人の子をもうけ、そのうちカール・フィリップ・エマヌエル・バッハやヨハン・クリスティアン・バッハらは著名な音楽家となった。宗教的信念、大家族を支える責任感、音楽職人としての規律が、膨大で緻密な作品群を生み出した。代表作にはマタイ受難曲、ヨハネ受難曲、ブランデンブルク協奏曲、平均律クラヴィーア曲集、ゴルトベルク変奏曲などがある。
2.ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト
神童の栄光と自立した音楽家の苦闘
ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年、オーストリアのザルツブルクに生まれ、1791年にウィーンで35五歳の生涯を閉じた。父レオポルトは宮廷音楽家であり、幼い息子の並外れた才能を見抜くと、姉ナンネルとともにヨーロッパ各地へ演奏旅行に連れ出した。モーツァルトは幼少期から王侯貴族の前で演奏し、作曲する神童として名声を得た。しかし、成長後の人生は必ずしも順調ではなかった。ザルツブルク大司教に仕える身分を嫌い、ウィーンで独立した作曲家として生きる道を選んだが、当時は宮廷や教会の庇護を離れて音楽だけで生活することは容易ではなかった。演奏会、作曲、弟子への指導などで収入を得たものの、生活は不安定で、借金を重ねることもあった。妻コンスタンツェとの結婚は父の反対を押し切ったものであった。モーツァルトは陽気で冗談好きであり、手紙には子供じみた言葉遊びも多く残る一方、作品には深い悲哀と劇的な人間理解が表れている。軽快で明るい人物像だけでは捉えられない複雑さこそ、彼の音楽の魅力である。代表作にはオペラフィガロの結婚、ドン・ジョヴァンニ、魔笛、交響曲第40番、ジュピター、レクイエムなどがある。
3.ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
難聴と孤独を創造力に変えた革命児
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは1770年、ドイツのボンに生まれ、1827年にウィーンで没した。父は息子を第二のモーツァルトにしようと厳しい教育を施したが、家庭は貧しく、父の飲酒問題もあって安定していなかった。青年期にウィーンへ移り、ハイドンらに学びながら、卓越したピアニストとして名声を得た。ベートーヴェンは身分や権威に対する反発心が強く、貴族の庇護を受けながらも、自らを召使いではなく独立した芸術家と考えた。気性は激しく、身なりや住居には無頓着で、家政婦や周囲の人々との争いも絶えなかった。私生活では何人もの女性に恋をしたが、身分差などの事情もあり、結婚には至らなかった。最大の苦難は二十代後半から進行した難聴である。演奏家としての活動を断念せざるを得なかったが、作曲家として内面的な聴覚を研ぎ澄まし、従来の形式を大きく拡張した。ハイリゲンシュタットの遺書には絶望と生への決意が記されている。交響曲第3番英雄、第5番運命、第6番田園、第9番、ピアノ・ソナタ月光、熱情などは、苦難に抗して人間の尊厳を表現した作品である。
4.フランツ・ペーター・シューベルト
無名と貧困のなかで歌を書き続けた早逝の天才
フランツ・ペーター・シューベルトは1797年、ウィーン郊外に生まれ、1828年に31歳で没した。父は学校教師であり、シューベルト自身も一時は父の学校で教員を務めた。しかし、規則的な教師生活になじめず、作曲に専念する道を選んだ。シューベルトは温厚で内気な人物であり、宮廷や劇場で地位を築くための自己宣伝や社交を得意としなかった。経済的には友人たちに支えられることが多く、住居を転々としながら創作を続けた。仲間たちは彼の作品を演奏する集まりを開き、後にシューベルティアーデと呼ばれるようになった。歌曲の分野では、詩の意味と旋律、ピアノ伴奏を一体化し、ドイツ歌曲を芸術として完成させた。しかし存命中に広く知られた作品は限られ、多くの傑作は死後に評価された。病気や孤独を抱えながらも作曲意欲は衰えず、短い生涯に六百曲を超える歌曲を残した。代表作には魔王、野ばら、歌曲集美しき水車小屋の娘、冬の旅、交響曲第7番未完成、ピアノ五重奏曲ますなどがある。
5.ルイ・エクトル・ベルリオーズ
恋愛と幻想を音響に変えた劇場的人間
ルイ・エクトル・ベルリオーズは1803年、フランス南東部のラ・コート=サンタンドレに生まれ、1869年にパリで没した。父は医師であり、ベルリオーズも医学を学ぶためパリに出たが、解剖実習に耐えられず、音楽家への道を選んだ。彼は感情の起伏が激しく、恋愛においても極端な行動を取った。英国人女優ハリエット・スミスソンに熱烈な恋をし、その情熱と失恋体験から幻想交響曲を生み出した。後にハリエットと結婚したものの、生活上の相違から関係は破綻した。ベルリオーズはピアノの名手ではなく、伝統的な演奏家型の作曲家とは異なっていた。その代わり、管弦楽法に卓越し、巨大な編成と鮮烈な音色によって、物語性の強い音楽を作った。フランス国内では十分に理解されない時期が長く、音楽評論を執筆して生活を支え、海外で自作を指揮して評価を得た。代表作には幻想交響曲、イタリアのハロルド、レクイエム、ファウストの劫罰などがある。
6.フェリックス・メンデルスゾーン
教養と幸福に恵まれた古典主義者
フェリックス・メンデルスゾーンは1809年、ドイツのハンブルクに生まれ、1847年にライプツィヒで没した。裕福な銀行家一族に生まれ、文学、哲学、美術、語学を含む高度な教育を受けた。幼い頃から音楽的才能を発揮し、恵まれた家庭環境の中で作曲や演奏に取り組んだ。彼は知的で礼儀正しく、指揮者、ピアニスト、作曲家、教育者として高い能力を示した。忘れられていたバッハのマタイ受難曲を復活上演し、バッハ再評価の契機を作ったことでも知られる。また、ライプツィヒ音楽院の設立に関わり、ドイツ音楽教育の発展に貢献した。家庭生活も比較的安定しており、セシル・ジャンルノーと結婚して子供をもうけた。姉ファニーとは特に深い精神的・音楽的関係を持ち、その死はメンデルスゾーンに大きな衝撃を与えた。彼の音楽は均整、明快さ、洗練を重んじ、激しい自己破壊よりも教養ある抒情性を特色とする。代表作には真夏の夜の夢、ヴァイオリン協奏曲、交響曲第3番スコットランド、第4番イタリア、無言歌集などがある。
7.フレデリック・ショパン
故国への郷愁をピアノに託した詩人
フレデリック・ショパンは1810年、ワルシャワ近郊に生まれ、1849年にパリで没した。ポーランド人の母とフランス人の父のもとに育ち、幼少期からピアノと作曲の才能を示した。20歳で祖国を離れた後、ポーランドで反乱が起こり、結果的に生涯帰国することができなかった。パリでは社交界に受け入れられ、演奏会よりも個人教授や楽譜出版によって生活した。大音量で聴衆を圧倒する演奏家ではなく、繊細な音色と微妙な表情を重視した。性格は上品で控えめでありながら、物まねや機知にも長けていた。作家ジョルジュ・サンドとの恋愛は、ショパンの人生で最も有名な関係である。二人はマヨルカ島などで生活したが、ショパンの病弱さや家庭内の問題から、関係は次第に悪化した。長年にわたり結核に苦しみ、39歳で亡くなった。作品の大部分をピアノに集中させ、ポーランドの舞曲や民族的リズムを洗練された芸術へ高めた。代表作には英雄ポロネーズ、革命のエチュード、数多くのノクターン、マズルカ、バラード、ピアノ協奏曲などがある。
8.ローベルト・シューマン
文学的幻想と精神の崩壊を生きたロマン主義者
ローベルト・シューマンは1810年、ドイツのツヴィッカウに生まれ、1856年に精神病院で没した。父は書店と出版業を営んでおり、シューマンは幼少期から文学と音楽の双方に親しんだ。法律を学んだ後、ピアニストを志したが、指の故障によって演奏家の道を断念し、作曲と音楽評論へ進んだ。シューマンは自身の内面を、情熱的なフロレスタンと夢想的なオイゼビウスという架空の人格に分けて表現した。音楽評論誌を創刊し、ショパンやブラームスなど新しい才能を高く評価した。ピアノ教師フリードリヒ・ヴィークの娘クララと恋愛関係になったが、父親の激しい反対を受け、裁判を経て結婚した。クララは高名なピアニストであり、夫の作品を演奏し、家計を支え、子供を育てた。シューマンは次第に精神的不調を深め、幻聴や妄想に苦しみ、ライン川への投身を試みた後、精神病院に収容された。代表作には子供の情景、謝肉祭、歌曲集詩人の恋、ピアノ協奏曲、交響曲第3番ラインなどがある。
9.フランツ・リスト
スター演奏家から宗教家へ転じたヨーロッパの寵児
フランツ・リストは1811年、当時ハンガリー王国領であったライディングに生まれ、1886年にバイロイトで没した。幼い頃からピアノの才能を示し、父とともにウィーンやパリへ出て教育を受けた。超絶的な技巧と華麗な舞台姿によって、ヨーロッパ各地で熱狂的な人気を集めた。リストの演奏会では女性聴衆が失神し、手袋や切れた弦まで記念品として求めたとされるほど、近代的なスター演奏家であった。一方で、他の作曲家の作品を編曲して紹介し、若い音楽家を支援し、慈善演奏会を行うなど、寛大な人物でもあった。マリー・ダグー伯爵夫人との間に3人の子をもうけ、その一人コジマは後にワーグナーの妻となった。晩年には宗教への傾倒を深め、僧籍に入り、ローマ、ワイマール、ブダペストを往来した。華麗な超絶技巧だけでなく、晩年には調性の崩壊を先取りするような実験的作品も書いた。代表作にはハンガリー狂詩曲、超絶技巧練習曲、愛の夢、ピアノ・ソナタ、交響詩前奏曲などがある。
10.リヒャルト・ワーグナー
芸術と政治と欲望を一体化した巨大な自我
リヒャルト・ワーグナーは1813年、ドイツのライプツィヒに生まれ、1883年にヴェネツィアで没した。劇作、作曲、演出、思想を総合した楽劇を構想し、音楽史だけでなく、演劇、文学、政治思想にも大きな影響を与えた。性格は強烈で、自信に満ち、他人の支援を当然視するところがあった。浪費癖があり、借金から逃れるため各地を転々とした。革命運動に関与して亡命生活を送りながらも、ザクセン王ルートヴィヒ2世の援助を得て、壮大な作品を完成させた。女性関係も複雑であり、最初の妻ミンナとの結婚生活が破綻した後、指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻で、リストの娘でもあるコジマと関係を結び、後に結婚した。バイロイトに自作上演のための祝祭劇場を建設し、自らの芸術世界を制度として残した。代表作にはさまよえるオランダ人、タンホイザー、ローエングリン、トリスタンとイゾルデ、4部作ニーベルングの指環、パルジファルなどがある。
11.ジュゼッペ・ヴェルディ
農民の堅実さで国民的オペラを築いた作曲家
ジュゼッペ・ヴェルディは1813年、イタリア北部の小村レ・ロンコレに生まれ、1901年にミラノで没した。宿屋兼食料品店を営む比較的庶民的な家庭に育ち、地元の商人アントニオ・バレッツィの支援を受けて音楽を学んだ。若くして妻と二人の子を相次いで失い、そのうえ初期のオペラが失敗するという深い絶望を経験した。しかし、オペラナブッコの成功によって再起し、イタリアを代表する作曲家となった。政治的自由を求める時代に作品が支持され、ヴェルディの名はイタリア統一運動の象徴ともなった。名声を得た後も都会的な社交より農村生活を好み、土地を購入して農業や馬の飼育に力を注いだ。実務的で慎重な性格であり、自らの著作権や契約条件を厳格に管理した。歌手ジュゼッピーナ・ストレッポーニと長く生活した後に結婚している。代表作にはリゴレット、イル・トロヴァトーレ、椿姫、運命の力、ドン・カルロ、アイーダ、オテロ、ファルスタッフ、レクイエムなどがある。
12.ヨハネス・ブラームス
古典への敬意と秘めた愛に生きた孤高の音楽家
ヨハネス・ブラームスは1833年、ドイツのハンブルクに生まれ、1897年にウィーンで没した。父は楽団で演奏する音楽家であり、家庭は裕福ではなかった。少年時代から家計を助けるためにピアノを弾き、やがて作曲家として才能を示した。若いブラームスを世に紹介したのはシューマンであった。ブラームスはシューマン夫妻と深い関係を築き、シューマンが精神病院へ入った後は、妻クララと子供たちを支えた。クララへの愛情は生涯続いたと考えられているが、二人が結婚することはなく、ブラームスも独身を貫いた。外見や言葉遣いは無骨で、皮肉を言って人を傷つけることもあったが、親しい者への援助を惜しまない面もあった。自分の作品に対して厳しく、多くの草稿を破棄した。ベートーヴェンの後継者として見られる重圧を感じながら、古典的形式のなかにロマン派的感情を注ぎ込んだ。代表作には四つの交響曲、ドイツ・レクイエム、ヴァイオリン協奏曲、二つのピアノ協奏曲、ハンガリー舞曲などがある。
13ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
繊細な感情と社会的葛藤に苦しんだ旋律家
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは1840年、ロシア帝国のヴォトキンスクに生まれ、1893年にサンクトペテルブルクで没した。父は鉱山技師であり、チャイコフスキーは当初、法律学校で学び、官僚として勤務した。後に音楽への志を捨てきれず、サンクトペテルブルク音楽院で本格的に作曲を学んだ。感受性が強く、批評や失敗に深く傷つく一方、人との交流や旅行を好む面もあった。同性愛的傾向を社会に隠さなければならない苦悩を抱え、社会的体裁を整えるため教え子アントニーナ・ミリューコワと結婚したが、結婚生活はすぐに破綻した。富裕な未亡人ナジェジダ・フォン・メックから長期間にわたり経済的援助を受け、二人は大量の手紙を交換したが、互いに会わないという約束を保った。彼の音楽には、親しみやすい旋律と劇的な感情の高まりがあり、個人的な不安、孤独、運命への意識が強く反映されている。代表作には交響曲第4番、第5番、第6番悲愴、ピアノ協奏曲第1番、ヴァイオリン協奏曲、バレエ白鳥の湖、眠れる森の美女、くるみ割り人形などがある。
14.ガブリエル・フォーレ
節度と洗練を貫いたフランス音楽の教育者
ガブリエル・フォーレは1845年、フランス南部のパミエに生まれ、1924年にパリで没した。幼い頃から音楽的才能を示し、宗教音楽を重視するニデルメイエール音楽学校で学んだ。卒業後は教会オルガニスト、教師、作曲家として活動し、後にパリ音楽院院長となった。フォーレは派手な自己宣伝をせず、温厚で節度ある人物として知られた。生活のために教会勤務や教育を続けながら作曲したため、大作に集中できる時間は限られていた。それでも室内楽、歌曲、ピアノ曲の分野で、洗練された和声と抑制された感情表現を発展させた。晩年には聴覚障害に苦しみ、高音と低音が実際とは異なって聞こえる症状を抱えたが、創作を続けた。彼の音楽は激しい劇的対立よりも、静かな悲しみ、優雅さ、精神的な安らぎを特色とする。代表作にはレクイエム、ペレアスとメリザンド、パヴァーヌ、歌曲夢のあとに、2つのピアノ四重奏曲などがある。
15.ジャコモ・プッチーニ
女性と劇場を愛したイタリア・オペラ最後の巨匠
ジャコモ・プッチーニは1858年、イタリアのルッカに生まれ、1924年にブリュッセルで没した。代々教会音楽家を務める家系に生まれたが、若い頃にヴェルディのアイーダを観て強い衝撃を受け、オペラ作曲家を志した。プッチーニは劇的効果に敏感で、台本の細部に強くこだわり、台本作家や出版社と何度も修正を重ねた。人物の感情を直接伝える旋律、精密な管弦楽法、舞台上の時間感覚に優れていた。一方、私生活では狩猟、自動車、女性を好む伊達男であり、恋愛問題も多かった。長年の伴侶エルヴィーラとは複雑な関係にあり、家庭内の嫉妬が悲劇的な事件を引き起こした。作品では、ミミ、トスカ、蝶々夫人、リューなど、愛ゆえに犠牲となる女性を中心人物として描いた。代表作にはマノン・レスコー、ラ・ボエーム、トスカ、蝶々夫人、西部の娘、トゥーランドットなどがある。トゥーランドットは未完のまま残され、死後に補筆された。
16.グスタフ・マーラー
指揮者として働き、休暇中に宇宙を作曲した芸術家
グスタフ・マーラーは1860年、当時オーストリア帝国領であったボヘミアのカリシュトに生まれ、1911年にウィーンで没した。ユダヤ系の家庭に育ち、14人兄弟であった。幼少期から家庭内の不和や兄弟姉妹の死を経験し、生と死への強い意識を持つようになった。マーラーは主として指揮者として生計を立て、ハンブルク歌劇場、ウィーン宮廷歌劇場、ニューヨーク・フィルハーモニックなどで活動した。完璧主義的な指揮者であり、上演水準を高めた反面、楽員や歌手との衝突も多かった。多忙な劇場シーズン中には作曲する時間が取れず、夏の休暇中に山荘へこもって交響曲を作った。アルマ・シントラーと結婚したが、夫婦関係には年齢差、芸術活動、浮気などの問題が生じた。娘の死、自身の心臓病、ウィーンでの反ユダヤ主義的攻撃など、晩年には苦難が重なった。交響曲の中に民謡、軍楽、自然音、葬送、宗教的救済を取り込み、世界を表現しようとした。代表作には交響曲第1番巨人、第2番復活、第5番、第8番千人の交響曲、大地の歌などがある。
17.クロード・アシル・ドビュッシー
伝統を解体し光と色彩を音にした反逆者
クロード・アシル・ドビュッシーは1862年、フランスのサン=ジェルマン=アン=レーに生まれ、1918年にパリで没した。裕福な音楽一家ではなかったが、幼い頃に才能を認められ、パリ音楽院で学んだ。若い時期にはフォン・メック夫人の家庭でピアニストとして働き、ヨーロッパ各地を旅した。ドビュッシーはアカデミックな音楽教育に反発し、従来の和声進行や形式から離れた新しい響きを追求した。文学、象徴主義詩、美術、ジャワのガムラン音楽などから影響を受け、音を物語の説明ではなく、光、風、水、香りのような感覚として扱った。私生活では恋愛関係が複雑で、交際相手を傷つけ、友人たちから批判されることもあった。最初の妻リリーを離れ、銀行家の妻エンマ・バルダックと生活を始めたことで、大きな社会的非難を受けた。人間的な問題を多く抱えながらも、音楽では近代への扉を開いた。代表作には牧神の午後への前奏曲、海、オペラペレアスとメリザンド、ピアノ曲月の光、映像、前奏曲集などがある。
18.リヒャルト・シュトラウス
音楽的前衛と堅実な生活感覚を両立させた実務家
リヒャルト・シュトラウスは1864年、ドイツのミュンヘンに生まれ、1949年にガルミッシュで没した。父はミュンヘン宮廷管弦楽団の著名なホルン奏者であり、幼少期から保守的で高度な音楽教育を受けた。青年期にはワーグナー派の影響を受け、交響詩という分野で大胆な管弦楽表現を発展させた。ドン・ファン、ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら、英雄の生涯、ツァラトゥストラはかく語りきなどでは、巨大な管弦楽を自在に操った。後にはオペラサロメ、エレクトラで強烈な不協和音と心理表現を示した。妻パウリーネは気性の激しい歌手であったが、夫婦関係は長く続いた。シュトラウスは作曲家として革新的である一方、金銭や著作権には現実的で、自作品の報酬を厳密に管理した。ナチス政権下では帝国音楽院総裁を務めたため、政治的評価は複雑であるが、ユダヤ人の台本作家や親族を守ろうとした側面もあった。晩年の四つの最後の歌には、過ぎ去る時代への静かな惜別が表れている。
19.アルノルト・シェーンベルク
調性の限界を越えて新しい音楽秩序を作った理論家
アルノルト・シェーンベルクは1874年、ウィーンに生まれ、1951年にロサンゼルスで没した。銀行員として働きながら、ほぼ独学で作曲を学んだ。初期には後期ロマン派的な作品を書いたが、次第に伝統的な調性から離れていった。シェーンベルクは、不協和音が協和音へ解決しなければならないという従来の原則を解体し、無調音楽を経て、12の音を一定の秩序で扱う12音技法を考案した。これは感覚的な破壊ではなく、調性に代わる新しい作曲上の規則を構築しようとする試みであった。教師としても優れ、ベルクやウェーベルンを育てた。絵画にも取り組み、多数の自画像や幻想的な作品を残した。ユダヤ系であったためナチス政権成立後に米国へ亡命し、教育と作曲を続けた。迷信深い面があり、特に数字の13を恐れていたことでも知られる。代表作には浄められた夜、グレの歌、月に憑かれたピエロ、管弦楽のための変奏曲、未完のオペラモーゼとアロンなどがある。
20.イーゴリ・ストラヴィンスキー
時代ごとに自己を作り替えた二十世紀の変貌者
イーゴリ・ストラヴィンスキーは1882年、ロシア帝国のオラニエンバウムに生まれ、1971年にニューヨークで没した。父は著名なオペラ歌手であったが、本人は当初、法律を学んだ。リムスキー=コルサコフに作曲を学び、興行師セルゲイ・ディアギレフの依頼によるバレエ音楽で国際的名声を得た。バレエ火の鳥、ペトルーシュカ、春の祭典では、ロシア的色彩、鋭いリズム、複雑な拍子、大胆な和声を用いた。特に春の祭典初演は、音楽と振付の斬新さによって大きな騒動を引き起こした。ロシア革命後は故国を離れ、スイス、フランス、米国で生活した。創作様式を一つに固定せず、ロシア時代、新古典主義時代、12音技法を採用した晩年へと、自らの作風を変化させ続けた。ココ・シャネル、ピカソ、ジャン・コクトーなど、同時代の芸術家や文化人との交流も広かった。ストラヴィンスキーは、感情を直接吐露するロマン派的芸術家というより、素材を冷静に構成する知的な職人として自らを位置づけた。環境や時代が変化しても、それを吸収し、新しい創作原理へ転換する能力こそ、彼の最大の特徴である。代表作には火の鳥、ペトルーシュカ、春の祭典、プルチネルラ、詩篇交響曲、オペラ放蕩者のなりゆきなどがある。
本書が言いたかったこと
大作曲家は決して天上の存在ではなく、現代人と同じように悩み、恋愛し、病気になり、失敗を繰り返しながら創作を続けた一人の人間であった。偉大な音楽は天才だけが生み出した奇跡ではなく、それぞれの人生経験や家庭環境、社会情勢、精神的葛藤の積み重ねによって生まれたものである。本書は作曲家の人間性を知ることこそが作品理解への最も確かな道であることを示し、クラシック音楽をより身近で親しみやすい存在として捉え直すことを促している。
