科学者は終末論と救世主をどう考えるのか

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科学的宇宙観と古代宗教の両立構造

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はいずれも、古代世界に成立した宗教である。そこに描かれる天地創造、天国、最後の審判、死者の復活、救世主の到来などを、現代宇宙物理学の知識と同じ意味で文字どおり読めば、大きな矛盾が生じる。現代科学によれば、宇宙は約百数十億年にわたって膨張し、銀河や恒星は自然法則に従って形成されてきた。地球は宇宙の中心ではなく、太陽も銀河系に存在する数千億個規模の恒星の一つにすぎない。科学者は観測、数理モデル、再現可能性、反証可能性によって宇宙を研究しており、救世主の出現や最後の審判を宇宙物理学上の仮説として扱っているわけではない。NASAも宇宙の構造、起源、生命の可能性を観測によって解明することを科学活動の目的としている。それでは、宗教を持つ科学者は自らの信仰を捨てているのか。それとも、古代の記述を事実として信じながら研究をしているのか。実際には、科学者の対応は一様ではなく、おおむね五つの立場に分かれる。

科学者は宗教と科学を別の問いに

1.科学と宗教の問いの違い

宗教を持つ科学者に最も多く見られる考え方は、科学と宗教は同じ種類の説明ではないという立場である。科学が問うのは、宇宙がどのような法則によって膨張し、物質がどのように形成され、恒星がどのように生まれ、生命がどのように進化したかという問題である。これに対して宗教が問うのは、なぜ宇宙が存在するのか、人間はどのように生きるべきか、苦しみや死に意味があるのか、正義は最終的に実現するのかという問題である。したがって、宇宙物理学者がビッグバンやブラックホールを研究する時、聖書やクルアーンを観測資料として用いる訳ではない。反対に、人生の意味や善悪の根拠を考える時には、物理方程式だけでは答えられないと考える。この立場では、宗教は自然現象を説明する原始科学ではなく、存在の意味を表現する思想として理解される。

2.宗教的説明を持ち込まない

信仰を持つ科学者であっても、学術研究では通常の科学的方法に従う。例えば、観測結果と理論が一致しなければ理論を修正するのであり、神がそうしたからという説明で研究を終えることはできない。神の意思は測定も反証もできないため、科学的説明にはならないからである。したがって、敬虔なユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒であっても、科学者として論文を書く際には、誰もが検証できる証拠と数理的推論を提示しなければならない。信仰は研究動機や倫理観に影響することはあっても、研究結果を決定する証拠にはならない。

聖典を文字通りの宇宙論として読まない

1.聖典は現代科学の教科書ではない

宗教と科学を両立させる科学者の多くは、聖書やクルアーンを、現代的な意味での宇宙物理学の教科書とは考えない。古代の宗教文書は、当時の人々が理解できる言葉、象徴、物語によって、神、人間、善悪、歴史の意味を表現した文書であると考える。例えば旧約聖書の創世記にある6日間の創造を、現在の24時間が6回経過した出来事と解釈する必要はない。6日という構造は、宇宙が無秩序から秩序へ移行し、世界が神によって意味あるものとして成立したことを示す象徴的表現と理解できる。同様に、天が開き、救世主が雲に乗って現れ、星が地上に落ちるという終末描写も、天文学的な実況予告ではなく、既存の権力が崩壊し、神の正義が完成することを示す象徴として読まれる。

2.文字どおりには歴史的にも読まない

聖典をすべて文字どおり読む態度が、必ずしも最も古く、最も正統的な宗教理解であるとは限らない。ユダヤ教には長い注解と議論の伝統があり、一つの聖句に複数の意味を認めてきた。科学とユダヤ思想の関係についても、対立だけでなく、独立、対話、統合という複数の捉え方が存在する。キリスト教にも、聖書の字義的意味だけでなく、比喩的、道徳的、霊的意味を読む伝統がある。カトリック系のバチカン天文台は、ビッグバン宇宙論を信仰への脅威とはみなさず、科学研究を宇宙理解の正当な方法としている。イスラム教にもクルアーン解釈の長い伝統があり、宇宙や自然に関する記述を、神学的・倫理的な意味を持つ徴として読む立場が存在する。地球外生命の発見がイスラム神学にどのような影響を与えるかについても、スンニ派・シーア派双方の立場から現代的な検討が行われている。現代科学に合わせて無理に聖典を曲げているだけではなく、もともと宗教文書には象徴的・多層的に読む伝統が存在する。

科学者の終末論

1.宇宙の終わりと宗教的終末は別物

宇宙物理学が扱う宇宙の終末と、宗教が語る終末は同じものではない。科学における宇宙の終末とは、宇宙膨張が将来どうなるか、恒星が燃料を使い果たした後に何が起きるか、物質やブラックホールがどのような運命をたどるかという物理学上の問題である。これに対して宗教的終末論が扱うのは、悪や不正が最終的にどうなるのか、人間の行為に究極的責任があるのか、死が最後の結論なのかという問題である。したがって、宗教を持つ科学者は、宇宙の物理的終焉と最後の審判を同一の出来事とは考えない場合が多い。宇宙が極めて長い時間をかけて冷却していくとしても、それによって神学的な救済が証明も否定もされる訳ではない。宗教的終末は、宇宙空間のどこかで起こる天文学的現象ではなく、存在と歴史の究極的意味に関する主張だと理解する。

2.天国は宇宙の中の場所ではない

現代的なキリスト教神学では、天国を宇宙の上方に存在する物理的空間とは考えないことが多い。バチカン天文台の神学的解説でも、天国は宇宙内の特定地点として発見できる場所ではなく、神との関係を表す超越的現実として論じられている。この考え方を採れば、宇宙船がどれほど遠くまで飛んでも天国が見つからないことは、信仰の反証にはならない。そもそも天国を物理的対象として定義していないからである。同様に、死者の復活も、墓から現在の肉体がそのまま再構成される生物学的現象と見るのではなく、人間の存在が神によって回復されることを表す神学的言葉と解釈される。

救世主は歴史上の超人なのか

1.救世主を政治的・倫理的希望として理解

科学者が救世主思想を受け入れる場合も、その理解は必ずしも空から超自然的人物が降り、物理法則を停止させるというものではない。ユダヤ教では、メシアを世界に正義と平和を実現する理想的指導者、あるいは来るべき正義の時代の象徴として理解する立場がある。キリスト教では、キリストの再臨を未来の具体的出来事として信じる人もいるが、神の愛と正義が歴史の最終的基準となることを示す信仰告白として理解する人もいる。イスラム教でも、マフディーやイエスの再臨を文字どおり信じる人がいる一方、世界的不正が永続せず、最終的に正義が回復されるという希望として受け取ることができる。この立場では、救世主は物理学の研究対象ではなく、人間が歴史を絶望だけで終わらせないための倫理的・宗教的象徴となる。

2.文字どおり信じる科学者も存在

最も、すべての宗教系科学者が象徴的解釈を採用している訳ではない。科学者の中にも、死者の復活、最後の審判、キリストの再臨、マフディーの出現などを、将来実際に起こる超自然的出来事として信じる者は存在する。彼らは、自然法則は通常の宇宙の秩序を記述するものであるが、神はその秩序を超えているため、終末に超自然的介入が起こっても論理的矛盾ではないと考える。

宗教別に見た科学者の折り合いのつけ方

1.ユダヤ教系科学者

ユダヤ教には、信仰を固定された教義への同意よりも、学習、議論、律法実践、共同体への帰属として捉える傾向がある。そのため、ユダヤ人科学者の中には、人格神や救世主を文字どおり信じていなくても、ユダヤ教的伝統や倫理、文化的帰属を維持する者がいる。科学的には無神論者や不可知論者でありながら、ユダヤ人として聖書や祭日、歴史的記憶を大切にすることも十分に可能である。宇宙研究においてトーラーの物語から自然への畏敬や知的刺激を得ながら、宗教物語と科学的事実を直接同一視しない科学者もいる。近年の宇宙研究者への取材でも、ユダヤ的伝統を科学的好奇心の源泉としつつ、宗教文書から科学的結論を直接導くことには慎重な姿勢が示されている。

2.キリスト教系科学者

キリスト教では宗派による違いが大きい。カトリック、正教会、主流派プロテスタントの多くは、ビッグバン、宇宙進化、生物進化を受け入れ、聖書を科学教科書とは考えない。バチカン天文台には実際に専門的な天文学研究を行う聖職者・科学者がおり、科学的宇宙論と信仰を両立させている。一方、保守的福音派や原理主義の一部には、天地創造や終末預言を比較的文字どおり受け入れる人々が存在する。ただし、その中でも地球の年齢、進化、ビッグバンを認める科学者はおり、すべての福音派科学者が若い地球説を信じている訳ではない。著名な宇宙論研究者ジョージ・エリスのように、一流の科学研究を行いながら宗教的信仰を保持し、証拠に基づく科学と信仰・希望の対話を試みる人物も存在する。

3.イスラム教系科学者

イスラム教系科学者も一様ではない。クルアーンを自然科学の予言書のように扱い、現代科学の発見が既に聖典に記されていたと主張する人々もいる。しかし、この方法は、曖昧な聖句を発見後に科学用語へ当てはめる危険があり、多くの研究者から慎重に扱われている。より洗練された立場では、クルアーンは宇宙の物理的構造を詳細に説明するのではなく、自然を観察し、知識を求め、創造の秩序を考えるよう人間に促す文書だと理解する。その場合、ビッグバン、進化論、地球外生命が発見されても、神の存在が否定されたとは考えない。神は個々の自然現象の代替説明ではなく、自然法則を含む存在全体の根拠だと捉えるからである。

科学者が信仰を維持できる理由

1.神を説明できない部分に置かない

比較的慎重な宗教系科学者は、神を科学でまだ説明できない部分に置かない。雷が分からなければ神、生命の起源が分からなければ神、宇宙の始まりが分からなければ神、と考えると、科学が進歩するたびに神の領域が縮小するからである。これは隙間の神と呼ばれる考え方である。代わりに彼らは、神を未解明現象の原因ではなく、なぜ自然法則が存在するのかなぜ宇宙は理解可能なのかという根源的問題に関わる概念と考える。このような神は、宇宙論によって直接証明されることも、直接否定されることもない。

2.信仰を事実判断ではなく信頼として捉える

宗教的信仰は、単に古代文書の記述をすべて事実として承認することではない。多くの信者にとって信仰とは、神への信頼、共同体への帰属、祈り、道徳的実践、死者の記憶、人生の意味付けなどを含む総合的な生き方である。したがって、創世記の宇宙像が現代天文学と一致しないことだけで、信仰全体が直ちに崩壊するとは限らない。宗教は世界についての命題集であると同時に、人間が死、苦痛、罪、希望、共同体をどう受け止めるかを形づくる生活体系でもあるからである。

それでも矛盾は残る

1.すべてが美しく調和する訳ではない

科学と宗教は常に矛盾しない、とまで言うことはできない。宗教が、地球は数千年前に現在の姿で創造された、人類は他の生物と共通祖先を持たない、世界の終わる日時を聖典から計算できる、奇跡が自然科学的事実として証明されている、と主張するなら、科学的証拠との衝突は避けられない。宗教側が具体的な自然現象について検証可能な主張を行えば、それは科学的評価の対象となる。証拠と一致しなければ、宗教的主張の方を修正する必要がある。科学と宗教が共存できるのは、多くの場合、宗教が自然科学の領域を直接支配しようとせず、象徴、倫理、存在論、意味の問題を中心に据える場合である。

2.象徴的解釈は都合のよい後退か

当然、科学に反証されるたびに宗教が象徴だったと言い換えているだけではないかという批判が生じる。この批判には一定の妥当性がある。実際、かつて文字どおり信じられていた宇宙像を、科学の進歩後に象徴化した例は存在する。しかし一方で、聖典を寓意的・哲学的に読む伝統は近代科学以前から存在していた。したがって、すべての象徴的解釈を科学からの逃避と断定することも正確ではない。問題は、宗教者が不都合な証拠を無視するために象徴化しているのか、それとも宗教文書の本来の目的を、自然科学とは異なるところに認めているのかという点にある。

実際には信仰を捨てる科学者も多い

宇宙を深く研究した結果、伝統的宗教を信じられなくなる科学者も少なくない。彼らは、宇宙が人間のために設計されたようには見えず、広大で無関心な自然法則によって動いていること、聖典ごとに異なる神や救世主が語られていること、超自然的主張を裏付ける再現可能な証拠がないことなどを理由に、無神論または不可知論へ向かう。この立場から見れば、終末論や救世主思想は、古代人が死、不正、戦争、民族的苦難に意味を与えるために作った物語であり、宇宙の客観的構造とは無関係である。これは科学者として十分に合理的な立場である。ただし、科学が神は存在しないと証明した訳ではない。科学が示せるのは、自然現象を説明する際に神を仮定する必要がないというところまでである。神の存在が検証不能な形で定義されるなら、それは科学では肯定も否定もできない哲学的問題となる。

科学者は古代の宇宙像を信じているのか

結論として、宗教を持つ優れた宇宙科学者の多くは、数千年前の宇宙像を現代科学と同じ意味で受け入れている訳ではない。彼らは聖典を象徴的、倫理的、哲学的に読み、自然界の仕組は科学によって研究し、宗教には存在の意味や人間の生き方を問う役割を残している。終末は恒星や銀河が物理的に崩壊する日時の予言ではなく、悪と不正が永遠には続かないという希望として理解される。救世主も、宇宙物理学的な存在ではなく、正義、救済、歴史の完成を表す宗教的象徴として受け止められる場合が多い。一方で、超自然的な再臨や最後の審判を文字通り信じる科学者も存在する。彼らは、それを科学的結論としてではなく、科学の方法では扱えない信仰上の真理として受け入れている。したがって、科学者が宗教と折り合いをつける方法は、宗教を科学的事実として証明することではない。科学と信仰の適用範囲を分け、古代の言葉を現代的に解釈し直すことによって両立させている。ただし、率直に言えば、これは完全な論理的解決ではない。宗教の具体的な超自然的主張をどこまで象徴化できるのかという問題は残る。象徴化を徹底し過ぎれば、救世主、復活、審判という教義は事実についての主張ではなく、倫理的な詩や希望の物語に近づいていく。最終的な争点は、古代宗教が科学的に正しいかどうかではない。現代人がそれを、宇宙の事実を説明する文章として読むのか、人間が有限性と不正に耐えるための象徴体系として読むのかという点にある。

歴史に関する考察


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