アルベルト・ジャコメッティ素描集

Alberto Giacometti
Drawings
1996年刊
Michael Peppiatt著

著者とジャコメッティの経歴

マイケル・ペピアットは1941年生まれのイギリスの美術史家、批評家、キュレーターであり、特に20世紀フランス美術研究の第一人者として知られている。若くしてパリへ移住し、美術雑誌編集者やジャーナリストとして活動する一方、数多くの芸術家と交流を持った。とりわけジャコメッティとベーコン研究の権威として高く評価されており、ジャコメッティに関する展覧会の企画や著作を数多く手掛けている。

ジャコメッティは、1901年にスイス南東部のグラウビュンデン州に生まれた。父も著名な画家であり、幼少期から芸術的環境の中で育った。1922年にパリへ移住し、彫刻家として活動を開始した後、シュルレアリスム運動への参加と離脱を経験しながら独自の芸術を形成していった。第二次世界大戦後には、細長く痩せた人物像によって人間存在の孤独や不安を表現し、20世紀彫刻を代表する存在となった。しかし彼自身は彫刻家である以上に描く人であり、生涯を通じて膨大な数の素描を制作し続けた。彼にとってデッサンは彫刻や絵画の準備作業ではなく、世界を認識するための根源的な行為であった。

本書の内容

1.描くことから始まる芸術世界

本書はジャコメッティを単なる細長い彫刻の作家としてではなく、線によって世界を捉えようとした画家・素描家として再評価することを目的としている。そこでは若き日の学習期のデッサンから晩年の肖像素描に至るまで、数十年にわたる制作の軌跡が紹介されている。初期作品では、父の影響を受けた写実的な観察描写が中心となっている。人物の骨格や顔の構造を正確に理解しようとする姿勢が既に現れており、後年の作品に見られる厳しい観察眼の萌芽を見ることができる。

2.シュルレアリスム時代の線

1930年代のシュルレアリスム時代になると、線は現実の再現から解放され、夢や無意識の世界を表現する方向へ向かう。人体は断片化され、空間は不安定となり、現実と幻想の境界が曖昧になっていく。しかしジャコメッティはやがてこの方法に限界を感じるようになる。彼が求めたのは観念ではなく、目の前に存在する人物を本当に見たまま描くことであった。

3.戦後の肖像デッサン

本書の中心を占めるのは戦後の肖像素描群である。弟のディエゴや妻のアネット、友人やモデルたちが何度も描かれている。特徴的なのは、顔の中心に向かって無数の線が集中する独特の描法である。顔は描いても描いても完成せず、線は消され、再び描き直される。その結果、人物は紙の上に浮かび上がると同時に、再び消え去ろうとする不安定な存在として表現される。

4.空間と距離の問題

ジャコメッティにとって最大の問題は人間と空間との距離であった。本書では人物が周囲の余白の中に孤立して配置される構図が繰り返し紹介される。彼は人物を近くで見ているにもかかわらず、遠くに見える感覚を抱いていた。その矛盾した視覚体験を表現するため、人物は小さく、細く、周囲の広大な空間に取り囲まれて描かれるようになった。

5.デッサンと彫刻の関係

本書が特に重視するのは、素描と彫刻との密接な関係である。ジャコメッティの有名な歩く人物像や立像は、突然彫刻として生まれたのではない。無数の線描による観察と修正の積み重ねの結果として誕生した。彫刻は線が立体化したものであり、逆に素描は彫刻を平面に還元したものである。本書は両者が同じ探究の異なる表現形態であることを明らかにしている。

6.描き続ける意味

ジャコメッティは作品の完成をほとんど認めなかった。モデルを前にすると、前日に描いたものはすべて間違っているように思え、再び最初から描き直したという。本書にはその終わりのない試行錯誤が克明に記録されている。彼にとって芸術とは完成品を作ることではなく、見えないものへ近づこうとする永遠の過程であった。

本書が言いたかったこと

ジャコメッティの芸術の本質は、見ることへの執念にあった。彼は人間を知っているつもりにならず、毎回初めて見る存在として向き合った。そしてデッサンとは対象を説明するための技術ではなく、目の前の存在の真実に少しでも近づこうとする行為であると考えた。完成できないことを受け入れながら、それでも描き続ける姿勢こそがジャコメッティ芸術の核心である。

アーティスト研究選書