レオナルド・ダ・ヴィンチ素描集

The Drawings of Leonardo da Vinci
1946年刊
A. E. Popham著

著者の経歴

A. E. ポッパムは1889年に英国で生まれた美術史家であり、特にイタリア・ルネサンスの素描研究の第一人者として知られている。彼は長年にわたり大英博物館版画素描部門に勤務し、1945年には同部門の館長職に就任した。生涯を通じて古典素描の分類、真贋判定、様式分析に卓越した能力を示した。とりわけルネサンス期のイタリア素描研究に大きな功績を残した。本書はその豊富な経験と学識の集大成ともいうべき著作である。

本書の内容

1.素描によって明らかになる創造の過程

本書の最大の特徴は、完成作品ではなく素描を通してレオナルドの創造過程を追跡しようとした点にある。ポッパムはレオナルドの手による数百点の素描を時代順・主題別に整理し、そこから画家の思考の進化を読み取ろうとしている。レオナルドは最初に完成像を頭の中に持っていたわけではなく、描くことによって発見し、修正し、再構築していった。本書はその試行錯誤の軌跡を詳細に示している。

2.人体研究と解剖学的探究

本書の大きな部分を占めるのが人体研究である。筋肉、骨格、関節、内臓、胎児、血管に至るまで、レオナルドは医師顔負けの精密さで人体を観察した。彼の人体素描は芸術的美しさだけでなく、科学的正確性においても驚異的であり、後世の医学者たちをも驚かせた。レオナルドは人体を単なる形としてではなく、力学的構造体として理解しようとしていた。

3.動物と運動の研究

レオナルドは馬をはじめとする動物の運動にも強い関心を持っていた。本書には馬の疾走や跳躍、ライオンや熊の頭部研究など数多くの動物素描が収録されている。特に馬の研究は後年の騎馬像計画へと結実するものであり、単なる写生ではなく運動の原理を理解しようとする科学的探究であった。

4.自然観察と植物研究

植物や岩石、水流、雲など自然現象の観察も本書の重要な主題である。レオナルドは植物を装飾として描いたのではなく、その成長法則や構造を理解しようとした。葉脈の広がりと河川の分岐を同じ法則として捉えるなど、自然界全体を統一的な秩序のもとに理解しようとする姿勢が見られる。

5.絵画のための準備素描

東方三博士の礼拝、岩窟の聖母、最後の晩餐などのための準備素描も多数掲載されている。これらの素描を見ることで、完成作品では見えない構図の変遷や人物配置の試行錯誤が理解できる。完成作品は静止しているが、素描には創造のエネルギーがそのまま封じ込められている。

6.技術者としてのレオナルド

本書は芸術家としてのレオナルドだけではなく、発明家、技術者としての側面にも光を当てている。飛行装置、兵器、水力機械、橋梁設計などのスケッチは、彼の関心が絵画を遥かに超えていたことを示している。レオナルドの頭の中では芸術と科学は対立するものではなく、どちらも自然の法則を理解するための異なる方法にすぎなかった。

7.素描技法の分析

ポッパムはレオナルドの使用した銀筆、黒チョーク、赤チョーク、ペン、インク、水彩などの技法についても詳細に分析している。特にレオナルド独特の柔らかな陰影表現や微妙なぼかしの技法は、後のスフマート技法の源流として理解されている。線による輪郭表現から面による量感表現への移行は、西洋素描史における大きな転換点であった。

本書が言いたかったこと

レオナルドにとって素描とは完成作品の準備段階ではなく、思考そのものであった。彼は描くことによって世界を理解し、描くことによって問題を解決し、描くことによって新たな発見を行った。芸術、科学、工学、解剖学といった現代では別々の学問分野に分類されるものは、レオナルドの内部ではすべて観察し、理解し、描くという一つの行為に統合されていた。本書は、レオナルドを万能の天才として神話化するのではなく、徹底した観察と終わりなき探究心によって天才へ到達した一人の研究者として描いている。

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