脳の右側で描け

Drawing on the Right Side of the Brain
1979年刊
Betty Edwards著

著者の経歴

ベティ・エドワーズは1926年、アメリカのサンフランシスコに生まれた美術教育者、研究者、画家である。UCLAで美術を学び、その後、美術教育と心理学を研究し、1976年には芸術教育と心理学分野の博士号を取得した。高校教師やコミュニティ・カレッジで教鞭を執った後、カリフォルニア州立大学の教授となり、脳半球研究を芸術教育へ応用する研究センターを設立した。彼女の関心は、なぜ一部の人は描けるのに、多くの人は自分には絵の才能がないと思い込むのかという問いに向けられていた。

本書の内容

1.左脳モードと右脳モード

本書の出発点は、人間の脳には二つの異なる認識様式が存在するという考え方である。エドワーズは言語的、分析的、論理的な働きを行う左脳モードと、視覚的、直観的、全体把握的な働きを行う右脳モードを区別した。通常、人間は物を見る時、目で見たものを見ているのではなく、知識として知っているものを見ている。例えば目を描く時、人は実際の形を観察する代わりに、目とはアーモンド形であるという記号的知識を描いてしまう。エドワーズは、この記号化された認識を停止し、純粋に視覚的に対象を観察する状態を右脳モードと呼んだ。

2.記号として描くことからの脱却

初心者の絵が幼児の絵に似てしまう最大の理由は、対象を記号として描くからである。顔は丸、目はアーモンド型、鼻は三角形という既成概念が実際の観察を妨げる。本書では、この記号化を破壊するために、逆さにした絵を模写する課題が与えられる。絵を逆さにすると脳はそれを顔や人物と認識できなくなり、線や角度や比率を観察せざるを得なくなる。この訓練によって、知識ではなく視覚によって描く能力が育成される。

3.輪郭を見る能力

エドワーズは最初の知覚技能として輪郭を見る能力を重視した。代表的な訓練がブラインド・コンター・ドローイングである。これは対象だけを見つめながら、紙を一切見ずに輪郭線だけを描く方法である。この訓練では上手な絵を描くことが目的ではない。目と手を直接結び付け、認識を言語化する左脳の介入を防ぐことが目的なのである。

4.ネガティブ・スペースを見る能力

人は物体ばかりに注目するが、画家は物体の間に存在する空間も観察している。椅子を描く場合、椅子の脚ではなく脚の間にできる空間の形を描く方が正確なデッサンになる場合が多い。本書ではこの空間をネガティブ・スペースと呼び、その観察能力を養う訓練を数多く紹介している。

5.比例と角度を測る能力

優れたデッサンは線が美しいから成立するのではなく、比率が正確だから成立する。本書では鉛筆を物差し代わりに用い、長さや角度を測定する方法を教える。目や鼻の位置関係、頭部の傾き、肩幅と顔幅の比率などを客観的に観察することで、対象は驚くほど正確に描けるようになる。

6.光と影を見る能力

立体感は輪郭線ではなく明暗によって生まれる。エドワーズは、光と影を単なる色ではなく、抽象的な形の集合として見ることを勧める。画家はリンゴを描くのではなく、明るい部分の形と暗い部分の形を描いているる。

7.全体を見る能力

最後に重要なのは、部分を統合して全体を見る能力である。輪郭、空間、比率、明暗という四つの知覚技能が統合された時、人は初めて対象を本当に見ることができるようになる。エドワーズはこれをゲシュタルト的知覚と呼び、熟練した画家が自然に行っている認識方法であると説明している。

8.現代神経科学との関係

本書の右脳・左脳理論は1970年代の脳科学研究に基づいているが、現在では創造性が単純に右脳だけの働きであるという考え方は支持されていない。しかし、分析的認識から視覚的認識へ切り替えるという教育方法は現在でも非常に有効と評価され、多くの美術教育現場で利用され続けている。

本書が言いたかったこと

絵が描けない人など存在しない。多くの人は才能がないのではなく、対象を正しく見る方法を学んでいないだけである。絵を描くとは手先の技術ではなく、世界を新しい方法で見ることである。知識や先入観によって構成された世界から一歩離れ、目の前に存在する形や空間や光をありのままに知覚できた時、人は初めて本当に描くことができる。その経験は単なるデッサン技術の習得にとどまらず、物事を新しい視点から見る創造性の獲得につながる。

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