Muskism
2025年(日本語版2026年5月)刊
Quinn Slobodian and Ben Tarnoff著
著者の経歴
クィン・スロボディアンは、カナダ出身の歴史学者であり、ボストン大学パーディー・スクール・オブ・グローバル・スタディーズ教授を務める。専門は国際史、政治経済史、グローバル資本主義史であり、特に新自由主義思想の成立と展開を歴史的視点から分析する研究で国際的に高く評価されている。代表作Globalists、Crack-Up Capitalismでは、市場と国家の関係や、国家を超える資本主義の構造変化を詳細に論じてきた。本書でもその研究成果を踏まえ、イーロン・マスクを単なる企業家ではなく、新しい政治経済システムを象徴する存在として位置づけている。
ベン・ターノフは、アメリカの作家・ジャーナリスト・テクノロジー評論家であり、シリコンバレーの権力構造、AI、SNS、ビッグテック企業の社会的影響を継続的に論じてきた。The Guardian、The New Republic、The New York Review of Booksなどに寄稿し、テクノロジーと民主主義の関係について批判的な視点を提示している。本書では、巨大テクノロジー企業が国家や市場のあり方をどのように変えているかを現代的な視点から分析している。
本書の内容
1.マスキズムという新たな社会システム
本書の最大の特徴は、イーロン・マスク個人の伝記でも経営論でもなく、マスキズム(Muskism)という新しい政治経済システムを提示した点にある。著者は20世紀を代表した大量生産・大量消費社会をフォーディズムと呼ぶならば、21世紀にはイーロン・マスクが象徴する新しい社会システムが成立しつつあると主張する。その特徴は、自動車、宇宙、通信、人工知能、SNS、ロボットなど、本来は別々であった巨大インフラが、一人の企業家を中心に統合され、社会を支配する方向へ向かっていることである。
2.選民思想と未来主義
マスキズムの根底には人類を進化させるという壮大な理念が存在する。火星移住、AI、人間拡張技術、脳とコンピュータの接続など、一見すると未来志向の構想は魅力的である。しかし、その恩恵を受ける対象は社会全体ではなく、技術を所有し利用できる一部の人々に限定される可能性が高いと指摘する。人類全体の未来という理念の背後に、実際には選ばれた人々だけが利益を享受する構造が隠れている。
3.国家を超える企業国家
従来の巨大企業は国家の法律に従って活動してきた。しかしマスクの企業群は、SpaceXによる宇宙開発、スターリンクによる通信網、テスラによるエネルギー、Xによる情報空間、xAIによる人工知能という複数の巨大インフラを同時に保有している。その結果、国家が企業を規制する時代から、国家が企業インフラに依存する時代へ移行しつつある。国家と企業は対立する存在ではなく、相互依存する巨大権力となり、新しい形態の独占を形成していく。
4.サービスとしての主権
本書で興味深い概念がサービスとしての主権である。かつて国家だけが持っていた通信、軍事、宇宙、安全保障などの機能を、民間企業がサービスとして提供する時代になった。たとえばスターリンクは国家レベルの通信インフラとなり、SpaceXは政府以上の宇宙輸送能力を持つようになっている。このように国家の主権機能が民間企業へ移行している現象を、著者らは21世紀最大の制度変化として捉えている。
5.アテンション経済と情報支配
マスキズムでは、人々の注意が資源となる。X(旧Twitter)は単なるSNSではなく、人々の政治意識、投資行動、世論形成を左右する巨大な情報プラットフォームとなっている。AIによる情報生成やアルゴリズムが加わることで、人々は自ら情報を選択しているように見えながら、実際には巨大システムの中で行動を誘導される危険性が高まる。
6.AIと人間の融合
Neuralinkやヒューマノイドロボットの発展は、人間と機械の境界を曖昧にしていく。著者は、この技術そのものを否定しているのではない。問題は、その技術を少数の企業が独占し、人類全体の意思決定や能力を管理できるようになる可能性である。AIは単なる便利な道具ではなく、社会制度を書き換える存在になり得る。
7.Xという国家
著者はXを一企業ではなく、一種の国家として描いている。通信、決済、AI、ニュース、行政サービスなどが一つの巨大アプリへ統合されれば、人々は国家よりもプラットフォーム企業に依存する生活を送るようになる。こうして企業は法律を制定しなくても、アルゴリズムによって社会秩序を実質的に決定できるようになる。
8.マスキズムの四つの未来
終章では著者は、マスキズムが今後どのような方向へ進むかを四つのシナリオとして検討する。技術革新によって豊かな社会が実現する可能性を認めながらも、企業による超巨大独占、民主主義の弱体化、国家主権の空洞化、AIによる社会管理が進む危険性を強く警告している。
本書が言いたかったこと
イーロン・マスクという一人の実業家を評価することではなく、彼が象徴する新しい資本主義の仕組を理解しなければならない。20世紀の資本主義は市場と国家を中心に発展したが、21世紀にはAI、宇宙、通信、SNS、エネルギーなど複数の社会基盤を統合する巨大テクノロジー企業が、国家以上の影響力を持ち始めている。こうした変化は利便性や技術革新をもたらす一方で、独占の強化、民主主義の空洞化、情報支配、国家主権の民間企業への移行という新たな危険も孕んでいる。著者は、この新しい時代を無自覚に受け入れるのではなく、その構造を理解し、市民自身が技術と権力の関係を主体的に監視することの重要性を訴えている。
