徳川慶喜
1997年刊
家近良樹著
著者と徳川慶喜の経歴
家近良樹は1949年生まれの日本近代史研究者であり、大阪経済大学教授を務めた。専門は幕末維新史で、特に薩摩藩や長州藩、坂本龍馬、西郷隆盛、徳川慶喜など維新期の政治過程を実証的に研究してきた。従来の英雄史観やイデオロギー的解釈を排し、一次史料に基づいて人物や時代を再評価する姿勢で知られる。代表作に西郷隆盛、坂本龍馬の実像、薩長同盟論、幕末政治と倒幕運動などがあり、幕末研究の第一人者として高く評価されている。
徳川慶喜(1837~1913年)は、水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれ、一橋家を継いだ後、1866年に第15代将軍となった江戸幕府最後の将軍である。幕末の動乱の中で幕府改革を推進し、大政奉還を行って政権を朝廷に返上した。その後、鳥羽・伏見の戦いで敗れると江戸へ退き、恭順姿勢を貫いて江戸城無血開城への道を開いた。長く逃げた将軍と評されることもあったが、近年では日本を全面的な内戦から救った指導者として再評価が進んでいる。
本書の内容
1.水戸の血統と将軍継嗣問題
本書は、慶喜の生い立ちから始まる。水戸藩主徳川斉昭の子として育った慶喜は、幼い頃から聡明さで知られ、一橋家に迎えられた。やがて13代将軍家定の後継問題が起こると、雄藩や幕臣たちは慶喜を推したが、大老井伊直弼によって将軍継嗣争いは敗北に終わり、慶喜も謹慎を余儀なくされた。
2.幕府改革への挑戦
桜田門外の変後、政治の表舞台に復帰した慶喜は、将軍後見職や禁裏御守衛総督として幕府再建に尽力した。慶喜は単なる保守派ではなく、西洋軍制の導入や中央集権化を進める改革者であった。しかし幕府内部の抵抗や諸藩との利害対立により、その改革は容易には進まなかった。
3.最後の将軍としての苦悩
第15代将軍に就任した慶喜は、国内外の危機の中で政権運営を担うことになった。薩摩藩と長州藩が倒幕路線を強める一方で、幕府の財政や軍事力はすでに限界に近づいていた。慶喜は武力による維持が不可能であることを見抜き、政権のあり方を根本から見直そうとした。
4.大政奉還の決断
本書の重要な論点の一つは、大政奉還である。家近は、大政奉還を単なる敗北や降伏ではなく、政治主導権を保持しながら新しい国家体制を構築しようとした慶喜の戦略であったと位置付ける。慶喜は朝廷と諸侯による合議体制を構想しており、徳川家もその中核として存続できると考えていた。
5.鳥羽・伏見敗戦と恭順
鳥羽・伏見の戦いで敗れた後、慶喜は大阪城から江戸へ退いた。この行動は長く敵前逃亡と批判されたが、家近は逆に、徹底抗戦による内戦の激化を避けるための決断であったと評価する。江戸に戻った慶喜は謹慎し、幕臣たちの抗戦論を抑え、新政府への恭順を示した。
6.江戸城無血開城と日本の近代化
慶喜の恭順姿勢は、勝海舟と西郷隆盛の交渉による江戸城無血開城を可能にした。もし江戸で徹底抗戦が行われていれば、日本はアメリカ南北戦争のような大規模内戦に陥り、列強(イギリスとフランス)の介入を招いた可能性があった。慶喜の最大の功績は政権を失うことを受け入れてでも国家の分裂と流血を避けた点にある。
本書が言いたかったこと
徳川慶喜は無能な敗者でも優柔不断な人物でもなく、時代の変化を冷静に見極め、徳川家の利益よりも国家の将来を優先した政治家であった。彼は自ら権力を手放すことによって日本を全面的な内戦から救い、新しい国家への移行を可能にした。慶喜の真の功績は、戦わなかったことにあったのであり、その決断こそが近代日本成立の重要な条件となった。
徳川慶喜再評価論(付記)
なぜ日本を内戦から救った最後の将軍は低く評価されてきたのか
1.明治国家の正統性と敗者の歴史
徳川慶喜は、大政奉還と恭順によって日本が大規模な内戦へと突入することを防いだにもかかわらず、長らく低い評価しか受けてこなかった。その最大の理由は、明治政府が新国家の正統性を確立するため、徳川幕府を打倒して新時代を築いたという歴史観を必要としたからである。もし慶喜が賢明な政治家であり、自発的に政権を返上して近代国家への道を開いた人物であったと認めれば、倒幕の大義そのものが弱まる。そのため、明治政府が主導した歴史の中では、慶喜は時代遅れの幕府の最後の将軍、敗北した人物として描かれることになった。
2.戦わなかった英雄は英雄になりにくい
歴史はしばしば勝利した者や勇敢に戦った者を英雄として記憶する。しかし慶喜の最大の功績は、あえて戦わなかったことにあった。鳥羽・伏見の戦いで敗れた後、幕臣の多くは徹底抗戦を主張した。フランスの支援を受けて戦争を継続する道も残されていた。しかし慶喜はその道を選ばず、自ら謹慎して恭順の姿勢を示した。その結果、江戸城無血開城が実現し、日本は南北戦争のような長期内戦を回避することができた。しかし戦わない決断は、武士道的価値観の中では臆病や逃亡と受け取られやすく、後世の評価において不利に働いた。
3.外国勢力の思惑を超えて国家を優先した
幕末の日本には列強の影響が色濃く及んでいた。幕府はフランスから軍事的支援を受け、薩長はイギリスとの関係を深めていた。もし幕府と薩長の対立が長期化すれば、外国勢力が本格的に介入し、日本は中国のように半植民地化される危険もあった。慶喜は徳川家の存続や自らの権力よりも、国家全体の安定を優先した。彼はフランスの支援に依存した徹底抗戦を選ばず、また薩長との全面対決も避けることによって、日本を外国の代理戦争の場にしなかったのである。
4.功績は勝海舟と西郷隆盛の陰に隠れた
江戸城無血開城は一般には勝海舟と西郷隆盛の会談による成果として語られる。しかし、その交渉が成立した前提には、慶喜自身が徹底抗戦を命じず、恭順の方針を貫いたことがあった。もし慶喜が戦争継続を命じていれば、勝海舟も和平交渉を行うことはできなかった。無血開城の最大の功労者でありながら、慶喜は表舞台ではなく舞台裏に回り、その功績は過小評価されることになった。
5.自らを弁護しなかった最後の将軍
明治維新後の慶喜は政界に復帰せず、自分の功績を積極的に語ることもなかった。権力や名誉を求めず、写真や自転車、狩猟などを楽しみながら静かな余生を送った。そのため、自らを英雄として語ることなく、勝者によって作られた歴史がそのまま定着することになった。慶喜自身それにあえて異を唱えなかった。
6.歴史の真の英雄とは何か
近年の研究では、徳川慶喜は単なる敗者ではなく、国家の未来を見据えて権力を手放した政治家として再評価されている。戦争に勝つことよりも戦争を終わらせること、家の名誉よりも国家の存続を優先すること、そして自らの権力よりも国民の生命を守ることを選んだのである。徳川慶喜の真の偉大さは、敵を倒したことではなく、戦うことができる立場にありながら、あえて戦わなかったことにある。日本が大規模な内戦や列強の介入を免れ、近代国家へ比較的平和に移行できた背景には、この最後の将軍の静かな決断が存在していたことを日本国民は忘れてはならない。
