サミュエル・バーバー

Samuel Barber
The Composer and His Music
1992年刊
Barbara B. Heyman著

著者とサミュエル・バーバーの経歴

バーバラ・B・ヘイマンは彼女はアメリカ音楽史研究、とりわけバーバーの研究第一人者として知られている。本書は書簡、未公開資料、スケッチ、日記、関係者証言を丹念に調査し、バーバーの生涯と作品世界を総合的に描き出した決定版的研究書である。

サミュエル・バーバーは1910年、アメリカ・ペンシルベニア州ウェストチェスターに生まれた。幼少期から音楽的才能を示し、カーティス音楽院で作曲・ピアノ・声楽を学んだ。抒情性に富んだ作風によって早くから注目を集め、弦楽のためのアダージョによって世界的名声を獲得した。彼は20世紀音楽が無調や前衛へ向かう中でも、旋律美と感情表現を重視し続けた作曲家であり、歌曲、オペラ、管弦楽曲、協奏曲など幅広い分野で重要作品を残した。一方で、時代の前衛潮流との葛藤や、私生活における孤独、創作への不安にも苦しみ、晩年は沈黙と自己否定の色を深めていった。

本書の内容

1.若き才能の形成

本書はまず、バーバーの幼少期と家族環境から描き始める。彼の家系には音楽家がおり、家庭には芸術的雰囲気が存在していた。幼い頃から作曲を始めたバーバーは、音楽を単なる趣味ではなく運命として感じていた。著者は少年時代の書簡や初期作品を通して、既に後年の特徴である抒情性や内面的感受性が形成されていたことを示している。カーティス音楽院では、彼は厳格な教育を受けながらも、同時代作曲家たちとの差異を意識していた。技巧や理論だけでなく、歌うような旋律を最重要視する彼の姿勢は、この時期に確立された。

2.抒情性とアメリカ音楽

著者はバーバーの作品分析に多くの頁を割き、とりわけ旋律感覚と和声の特徴を詳述する。彼の音楽は近代的でありながら、ロマン派的感情表現を保持している点に特色がある。ヘイマンは、バーバーを単純な保守派とはみなさず、20世紀において抒情性を守り抜いた作曲家として位置づけている。弦楽のためのアダージョについては、悲劇的感情の高まりを極限まで純化した作品として分析される。この作品が戦争や国家的追悼と結びつき、アメリカの哀歌として機能した経緯も詳細に述べられる。また、ヴァイオリン協奏曲、ノックスヴィル1915年の夏、ピアノ・ソナタなども、バーバー独自の感情世界を示す作品として論じられる。著者は、彼の音楽が常に個人的感情と普遍的抒情の間を往復していると指摘する。

3.ジャン・カルロ・メノッティとの関係

本書の重要な柱の一つは、作曲家メノッティとの関係である。二人は長年にわたり共同生活を送り、芸術的にも深く結びついていた。ヘイマンは、この関係を単なる私生活の逸話として扱わず、創作上の相互作用として捉えている。メノッティはバーバーの精神的支柱であり、同時に現実社会との橋渡し役でもあった。しかし年月とともに二人の関係には緊張が生まれ、バーバーは孤独感を強めていく。本書は、こうした感情の変化が後期作品の暗さや沈黙に影響を与えた。

4.アントニーとクレオパトラの挫折

バーバーの人生における最大の転機として、本書はオペラアントニーとクレオパトラの失敗を描く。ニューヨークの新メトロポリタン歌劇場開場作品として大きな期待を集めたが、演出や舞台技術の混乱、過剰な期待、批評家の酷評によって大失敗に終わった。著者は、この出来事が単なる興行上の失敗ではなく、バーバー自身の創作意欲を深く損なった精神的事件であったと分析する。彼は以後、自信を失い、作品数は激減していった。

5.晩年と孤独

後半では、晩年のバーバーが詳しく描かれる。彼は次第に音楽界の前衛化から孤立し、自らの様式が時代遅れとみなされることに苦しんでいた。しかしヘイマンは、その評価が一面的であることを強調する。バーバーは流行に迎合せず、自らの感情表現を最後まで守り抜いた。晩年には健康悪化や精神的疲弊も重なったが、それでも彼の音楽には人間的感情への深い信頼が残されていた。本書は、彼を過去に取り残された作曲家としてではなく、感情表現の尊厳を守った芸術家として再評価している。

本書が言いたかったこと

サミュエル・バーバーとは単なる保守的作曲家ではなく、20世紀という急激に変化する時代の中で、人間的感情と旋律美を最後まで信じ続けた芸術家だった。彼は前衛音楽が支配的になる中でも、自らの内面に忠実であり続けた。そのため時代との衝突や孤独を抱えることになったが、彼の作品はむしろ現代人の不安や悲しみを深く映し出している。ヘイマンは、バーバーの人生を通じて、真の芸術とは流行への適応ではなく、自らの感受性に誠実であることだということを描こうとしている。

未来の輪郭