ラストカムイ 砂澤ビッキの木彫
2019年刊
芦原伸著
著者と砂澤ビッキの経歴
著者の芦原伸は、日本の紀行作家・ノンフィクション作家であり、土地の風土や歴史、人間の生き方を掘り下げる作品を数多く執筆している。特に旅を通して地域文化や人間の精神性を描くことに優れ、単なる取材記録ではなく、文学性とドキュメンタリー性を融合させた独特の作風で知られる。本書でも北海道、鎌倉、カナダなどを実際に歩きながら、砂澤ビッキの生涯と精神世界を立体的に描き出している。
砂澤ビッキ(1931–1989年)は、北海道旭川生まれの彫刻家であり、アイヌの血を引く現代芸術家である。若い頃は阿寒湖畔で土産用木彫を制作していたが、やがて本格的な芸術表現へと向かい、鎌倉で前衛芸術家や文学者たちと交流した後、再び北海道へ戻った。その後、北海道音威子府村の廃校となった筬島小学校をアトリエとして活動し、巨大な木彫作品を次々に制作した。ビッキは木を単なる素材として扱うのではなく、木の内部に潜む生命や風、時間を解放するかのような造形を行い、日本現代彫刻史の中でも極めて独創的な存在となった。特に代表作四つの風は、自然と芸術が一体化した象徴的作品として高く評価されている。


本書の内容
1.差別と孤独の中から始まった芸術人生
本書はまず、砂澤ビッキがアイヌとして生きた時代背景から描き始められる。戦後間もない北海道では、アイヌ民族への偏見や差別が色濃く残っていた。ビッキもまた、その現実の中で複雑な自己認識を抱えながら育っていった。若き日のビッキは阿寒湖畔で観光土産の木彫制作に従事していたが、その中でも既に既成の民芸的表現に収まらない強烈な個性を見せていた。著者は、ビッキの内部には常にもっと深い生命を表現したい衝動が渦巻いていたと描いている。
2.鎌倉時代と芸術的覚醒
ビッキの人生における大きな転機として、本書は鎌倉移住を重視している。そこで彼は、澁澤龍彦や武田泰淳らの文化人たちと接点を持ち、前衛芸術や文学の世界に触れることになる。特に重要なのは、山田美年子との出会いである。彼女は武田泰淳の小説森と湖のまつりのモデルともなった女性であり、ビッキの精神的支柱となった。本書では、彼女との関係が、ビッキの芸術に決定的影響を与えたことが丁寧に描かれている。鎌倉時代のビッキは、一時期絵画制作にも取り組み、モダンアート展で評価を得る。しかし最終的に彼は、平面ではなく木彫こそが自らの魂を表現できる媒体であると確信していく。
3.北海道への帰還と風の彫刻
その後ビッキは北海道へ戻り、音威子府村の廃校をアトリエとして活動を始める。ここから本書は、最も濃密な部分へ入っていく。著者は、北海道の風雪、広大な森、厳しい自然環境が、ビッキの芸術を形成していったと考えている。ビッキは木を削るというより、木の内部に閉じ込められた自然の力を解放しようとしていた。彼の巨大木彫作品には、人工的完成美とは異なる荒々しいエネルギーがある。割れ、節、腐食、風化すらも作品の一部として受け入れ、完成後も風雪に晒し続ける。その姿勢は、通常の美術作品概念を超えている。本書では、四つの風をはじめとする代表作について、単なる作品解説ではなく、自然と芸術が融合する儀式として描写している。ビッキにとって彫刻とは、自然を支配することではなく、自然と交感する行為だった。
4.カナダ体験と先住民族芸術
本書の重要な場面として、カナダ・ハイダ族との出会いも描かれる。ビッキは北米先住民族のトーテムポール文化に強い衝撃を受ける。そこでは彫刻が単なる美術品ではなく、神話や精霊、共同体の記憶として存在していた。この体験によってビッキが、自らのアイヌ的精神性をより深く自覚していった。しかし彼は単純な民族回帰を目指したのではない。アイヌという枠を超え、人間と自然の根源的関係を表現しようとしていた。
5.風化する芸術という思想
本書で特に印象的なのは、朽ちることを肯定する思想である。通常、美術作品は保存され、永遠性を求められる。しかしビッキは、風雪で倒れ、腐り、自然へ還っていくことを拒まなかった。著者はそこに、西洋近代芸術とは異なる自然観を見る。ビッキにとって作品は固定された物体ではなく、自然の循環の一部だった。風が吹き、雪が積もり、木が朽ちていく時間が、作品の完成過程だった。
本書が言いたかったこと
砂澤ビッキとは単なるアイヌ彫刻家ではなく、自然と生命の根源に触れようとした芸術家だった。彼は差別や孤独、自己否定を抱えながらも、それを単なる怨念や政治性へ閉じ込めなかった。むしろ自然との交感を通じて、人間存在を問い続けた。芦原は、ビッキの巨大木彫に、近代社会が失ってしまった自然への畏怖と生命への敬意を見ている。ビッキの作品は美しく整えられた工芸品ではない。風、雪、森、時間、死、再生といった大きな自然循環の中に置かれた、生きた存在である。本書は、一人の彫刻家の評伝であると同時に、人間は自然とどう向き合うべきかという根源的問いを描いた作品である。
