The Auctioneer
Adventures in the Art Trade
2023年
Philip Hook著
フィリップ・フックの経歴とオークションハウスの概要
フィリップ・フックは、英国を代表するオークション・スペシャリストである。ケンブリッジ大学で美術史を学んだ後、1973年にクリスティーズへ入社し、19世紀絵画部門の責任者を務めた。その後1994年にサザビーズへ移籍し、印象派・近代美術部門のシニア・ディレクターおよび取締役として長年活躍した。50年以上にわたり美術市場の最前線に身を置き、オークショニア、美術商、鑑定家として活動してきた。美術市場を内部から語る第一人者として知られている。
クリスティーズは1766年に創業された世界最古の大手オークション会社であり、ロンドンを本拠として発展してきた。一方のサザビーズは1744年創業で、当初は書籍競売会社として始まり、その後美術品市場へ進出した。20世紀以降、この二社は世界の美術市場をほぼ二分する存在となり、名画、古美術、宝石、ワイン、現代アートなどあらゆる高額資産の取引を担ってきた。両社は競争相手であると同時に、美術市場の価格形成を主導する巨大なインフラでもある。本書は、その世界を内部から見続けてきた著者による回想録であり、美術市場の実態をユーモアを交えて描いた作品である。
本書の内容
1.オークショニアという特殊な職業
本書は一般的な企業史や業界史ではなく、オークショニアという職業の視点から見た美術市場の回想録である。著者は若き日にクリスティーズへ入社し、その後サザビーズで長年活動した経験をもとに、オークション会社の日常を描いている。美術館や大学で学ぶ美術史とは異なり、オークション会社では常にこの作品はいくらで売れるのかという視点が存在する。作品の美的価値と市場価値は必ずしも一致せず、その複雑な関係が本書全体のテーマとなっている。フックは、オークショニアとは単なる競売人ではなく、鑑定家、心理学者、営業マン、歴史家、時には外交官の役割まで担う存在だと語る。
2.名画の価格はどのように決まるのか
本書の中心的テーマの一つが価格形成である。なぜ同じ画家の作品でも数千万円のものと数十億円のものが存在するのか。なぜ美術史上重要な作品が必ずしも高額になるとは限らないのか。著者は価格を決定する要素として、作品の質、来歴、希少性、保存状態、市場の流行、コレクターの競争心理などを挙げる。特に重要なのは欲しいと思う人が同時に複数存在するかどうかであり、美術市場はしばしば合理的な価値評価よりも人間の欲望によって動いていると指摘する。そのため、名画の価格は経済学だけでは説明できず、人間の虚栄心や所有欲を理解しなければならない。
3.富豪コレクターたちの心理
本書には世界中の富豪コレクターが登場する。彼らは単に美しい絵を買っているのではない。社会的地位を示したい者もいれば、歴史の一部を所有したい者もいる。あるいはライバルに勝つこと自体を目的にしている者もいる。著者は、最高級の美術品市場では作品そのものよりも誰が持っているかが重要になる場合さえあると述べる。オークション会場では、作品を巡る競争がしばしば人間の本能を刺激し、冷静な判断を失わせる。その瞬間を見極めることがオークショニアの技術である。
4.オークション会場の舞台裏
一般の人が見るのは数分間の競売である。しかしその背後では何カ月も前から準備が進められている。作品の調査、真贋確認、修復履歴の確認、保証契約、出品交渉、コレクターへの営業活動など、多くの作業が存在する。著者は、華やかな競売の世界の裏にある地道な調査活動を詳しく紹介する。美術市場は派手な世界に見えるが、実際には膨大な知識と経験に支えられた専門職の集合体である。
5.偉大な作品と市場の評価
本書では数多くの巨匠が登場する。ピカソ、モネ、ゴッホ、セザンヌなどである。著者は、美術史上の評価と市場評価がどのように形成されるのかを説明する。偉大な芸術家だから高額になるのではなく、市場が長い年月をかけてその価値を認識し、コレクターや美術館がそれを共有することで価格体系が作られていく。芸術的価値と経済的価値は別物だが、最終的には相互に影響し合うという視点が示される。
6.オークション業界のユーモアと人間模様
本書の魅力は市場分析だけではない。著者は数十年間にわたり出会った画商、コレクター、専門家たちの逸話を数多く紹介する。時には奇妙な依頼人や強欲な収集家、時には芸術を心から愛する人物が登場し、美術市場が実は極めて人間臭い世界であることが描かれる。フック独特の英国的ユーモアによって、読者は難解な市場論ではなく、人間ドラマとして美術市場を理解することができる。
本書が言いたかったこと
美術市場とは単なる金儲けの場ではなく、人間の欲望、教養、虚栄心、情熱が複雑に交差する巨大な文化装置である。芸術作品は美術館に展示されていると純粋な文化財に見える。しかし市場に出れば、それは資産となり、社会的地位の象徴となり、時には投機対象ともなる。オークショニアはその境界線に立ち、芸術と経済を結びつける役割を担っている。フックは、美術市場を単純に批判も礼賛もしていない。むしろ、市場には多くの欠点や不合理があることを認めながらも、その不合理さこそが人間らしさであり、芸術の価値を生み出す原動力でもあると考えている。本書は、名画の値段の秘密を解説する本であると同時に、人間はなぜ芸術を欲し、所有し、競い合うのかという根源的な問いを描いた、美術市場版の人間論である。
