抽象芸術

Theories of Modern Art
1968年刊
Herschel B. Chipp編著

ハーシェル・B・チップ

ハーシェル・B・チップ(1914–1991年)はアメリカの美術史家であり、特に近代美術研究の分野で高い評価を受けた研究者である。カリフォルニア大学バークレー校教授として長年教鞭を執り、印象派から抽象表現主義に至る近代美術の思想的背景を研究した。本書の最大の特徴は、チップ自身が理論を展開するのではなく、近代芸術を創造した芸術家や批評家たちの原典を集大成した点にある。カンディンスキー、モンドリアン、マレーヴィチ、クレー、ピカソ、未来派、ダダイスト、シュルレアリストらの著作や宣言文が広範に収録されており、近代美術の思想の百科全書とも呼ばれている。

本書の内容

1.近代芸術家たちの思想史

本書は一般的な美術史の解説書ではない。むしろ十九世紀末から二十世紀中葉に至る近代芸術家たちが、自らの芸術をどのように理解し、どのような理論的根拠によって新しい表現を生み出したのかを示す一次資料集である。チップは単なる年代順の作品解説ではなく、それぞれの芸術運動を生み出した思想的背景に焦点を当てている。そのため本書を読むと、近代美術とは単なる様式変化の歴史ではなく、人間の世界認識そのものの変化の歴史であることが理解できる。

2.印象派から始まる近代性

本書の前半では、近代美術の出発点として印象派やポスト印象派が扱われる。クロード・モネやポール・セザンヌらの思想を通じて、芸術家たちが客観的な再現から離れ、知覚そのものを描こうとした過程が示される。特にセザンヌの思想は重要である。彼は自然を単純な幾何学形態として把握しようとし、その考え方は後のキュビスムや抽象芸術の基礎となった。ここで近代芸術は既に、外界を模写する芸術から、人間の認識構造を探究する芸術へと変化し始めている。

3.表現主義と精神世界

続いて登場するのが表現主義である。カンディンスキーやフランツ・マルクらの文章を通じて、芸術が精神的体験を表現する手段として理解されるようになる過程が示される。カンディンスキーは芸術の使命を魂の表現と考え、色彩や形態そのものが精神的な響きを持つと主張した。彼の理論は、抽象芸術が単なる装飾や形式実験ではなく、人間の内面的真実を探求する試みであることを明らかにしている。この部分では近代芸術が科学的合理主義を超え、再び精神性や宗教性へ向かう動きとして理解される。

4.キュビスムと新しい現実認識

ピカソやブラックによって始められたキュビスムは、現実の見方そのものを変革した運動として扱われる。キュビストたちは対象を一つの固定された視点から描くことを拒否し、複数の視点を同時に画面へ取り込もうとした。ここでは絵画はもはや窓ではなく、独立した構造体となる。現実の再現よりも、現実をどのように認識するかが問題となる。キュビスムは抽象芸術への橋渡しとして位置づけられている。

5.未来派の速度とエネルギー

イタリア未来派の宣言文では、機械文明と近代都市への熱狂が語られる。未来派芸術家たちは自動車、飛行機、工場などを新しい美の象徴と考えた。彼らは静止した形態ではなく、運動や速度そのものを表現しようとした。芸術はもはや永遠性を追求するものではなく、変化とダイナミズムを表現するものへと変わっていく。ここには二十世紀初頭の技術文明への期待と興奮が色濃く反映されている。

6.抽象芸術の成立

本書の中心を成すのが抽象芸術の理論である。カンディンスキー、モンドリアン、マレーヴィチらの著作が詳細に紹介されている。モンドリアンは自然の背後に存在する普遍的秩序を探究し、垂直線と水平線による純粋な構成を目指した。マレーヴィチは更に進んで、完全な非対象絵画であるシュプレマティズムを提唱した。彼らに共通するのは、芸術が現実の模倣ではなく、より高次の真理を表現する手段であるという信念である。抽象芸術は現実から離れたのではなく、現実の背後にある本質へ近づこうとした。

7.ダダとシュルレアリスム

第一次世界大戦後のダダ運動とシュルレアリスムも重要な位置を占める。ダダは理性そのものへの反逆として登場し、既存の価値体系を破壊しようとした。シュルレアリスムは更に進んで、夢や無意識の世界を芸術へ導入した。フロイト心理学の影響を受けながら、芸術家たちは人間の理性の奥に潜む未知の領域を探究した。近代芸術は外界から内面へと関心を移していったのである。

8.抽象表現主義への展開

本書の終盤では、アメリカの抽象表現主義へと議論が進む。ポロックやロスコらは、抽象芸術を更に発展させ、行為や精神体験そのものを作品化した。ここでは完成された形態よりも制作行為が重要視される。芸術作品は結果ではなく、人間存在の痕跡として理解されるようになる。近代芸術の歴史は、最終的に人間の存在を問う方向へ進んで行く。

本書が言いたかったこと

近代芸術とは単なる様式の変化ではなく、人間の世界理解の革命であった。十九世紀までの芸術は主として外界を再現することを目的としていた。しかし近代芸術家たちは、知覚、精神、無意識、時間、運動、存在といった目に見えない領域へ関心を向けた。その結果としてキュビスム、抽象芸術、シュルレアリスム、抽象表現主義などが誕生したのである。本書は、近代芸術の歴史を写実から抽象への移行としてではなく、物質から精神へ、外界から内面へ、本物の現実とは何かを問い続ける思想の歴史として描いている。抽象芸術とは、単に対象を描かない芸術ではなく、目に見える世界の背後にある本質的真理を探究しようとする人間精神の壮大な試みである。

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